朝青龍問題と時津風部屋リンチ殺人について

 相撲には特に興味はない。いや、スポーツ全般にあまり興味はない。野球なんか、ルールも知らないし、選手の名前も知らない。しかし、なぜだか、島根から九州に出てきた3〜4歳の時に初めて覚えた有名人の名前が丹波哲郎と長嶋茂雄であった。

 相撲について思うことは、昔に比べて力士の平均体重が増えているので、まともにぶつかり稽古をしたら、体を痛めて選手生命が短くなるのではないかと言うことである。小兵の舞の海が余り練習せずに作戦ばかり練っていたと言うのも賢いやり方だと考える。

 柔道のテキストを読むと柔道(柔術)と相撲の起源として、日本書紀に記載の垂仁天皇7年の「野見宿禰」と「當麻蹶速」の戦いが記述してある。同じ起源を持ちながら相撲は格式化して、神事との関係が切り離せないものになった横綱が締める注連縄(しめなわ)は、神社の注連縄と同じ意味を持つものであろう。一方、格闘技の技として発達した柔術は明治になって体育の向上と精神の鍛錬を目的に加納治五郎によってスポーツとして体系化され、柔道として世界に広められた

 9月30日付朝日新聞文化欄に『「品格」って、なんでしょう?』のテーマでQ1『横綱に『品格』は必要だと思いますか。』の問いを発している。100人の回答者のうち53人が必要と回答している。必要と考える一番のキーワードは「国技」だったらしい。

 何が日本の国技か知らないが、個人的には国技だから品格が必要と言うことにはならないと思う。

 オリンピック等で優勝した瞬間にやわらちゃんなんかは拳を振り上げているが、私に言わせると礼儀を欠いていると思う。東京オリンピックの柔道無差別級でヘーシンクが優勝した瞬間、コーチ陣がはしゃぐのをヘーシンクは押し留めた。お互い礼を済ませるまで試合は終わっていないと言う意味だったのか、否か、ヘーシンクの心は分からないが、その態度に武道家としての思いやりと礼儀を感じる。しかし、柔道はあくまでも教育者であった加納治五郎がスポーツとして創始したものであるので、礼儀を重んじるにしても相撲の礼とは意味が異なる。柔道の礼は相手を重んじる礼であり、相撲の礼儀は神に通じる礼であろう。だから、大相撲の土俵で勝者が拳を天に突き上げ、雄たけびを上げるのは許されないであろう

 「品格不要論」には、あの鈴木宗雄と一緒に起訴された休職外務事務官の佐藤優の「勝負の世界に『品格』という主観的基準をもってくることがカテゴリー違い」と言う意見や名古屋大学教授の「社会人としてのマナーが守られている限りにおいて『品格』などという精神主義は無用」と言う意見が出ている。しかし、これらの意見は文化としての相撲という視点が欠けている。相撲を単なるプロスポーツと見るなら、神社における横綱の奉納土俵入りや場所中の土俵入りの儀式は不要である。行司もあんなへんてこな格好をする必要もないであろう。従って、品格不要論者は、私に言わせれば、文化無視論者である

 朝青龍の問題も相撲の文化性を認めるか、単なるプロスポーツと捉えるかで意見は全く違ってくるであろう。横綱はプロスポーツとしての最高位に位置する人間であるとともに相撲という文化の最高の担い手でなければならないと私は考える。朝青龍は元々、格下の相手を威嚇したり、必要以上に痛めつけたり、通常のプロスポーツの選手としても礼を欠いている上に、今回の嘘の診断書で帰国した上でのサッカー問題に到っては全く横綱としての自覚が出来ていないと言える。なぜなら、朝青龍がずる休みした地方巡業は、相撲という文化を地方に広める重要な宣伝活動である。要するに朝青龍はただ単に強さを誇って出稼ぎに日本に来ているだけとしか思えない

 相撲という文化を横綱にさえも理解させきらない日本相撲協会とは一体何なのか。また、そんな出稼ぎ意識の外国人力士を横綱にする日本相撲協会とは一体何なのか。相撲は日本の文化である以上、文化の継承が第一であり、それを理解できない外国人力士を認める必要はない。

 時津風部屋の時太山が6月に急死した問題も次第にリンチ殺人以外の何ものでもないことが明確になりつつある。そもそも格闘技は数段格上の者は格下の者や素人を容易に素手で殺すことが出来るのであるから、そこには自制心が必須のものとなる。だから武道では精神性を重要視する精神面を教えない武道は単なる殺人者の育成となる。かつてのボクシングの有名選手による恐喝等の犯罪が比較的多いのは、その辺の精神性の教育がなされていないからではないのか。要するに武道とスポーツの違いであろう。加納治五郎は柔術のうち、立ち技が体育の向上に有効として、立ち技を重視した柔道を創始した。そして道を講ずる館(講道館)として、「精力善用」、「自他共栄」を基本理念とした。

 時津風親方は兄弟子にリンチを指示した上に警察の取調べに嘘を付くように指示、“かわいがり”と呼ばれる集中的なぶつかりげいこの後、時津風親方は兄弟子を遠ざけ、時太山と二人だけで介抱もしていなかったと言うのだから、瀕死の時太山にとどめを刺していたのではないのか。意識がない時太山に水をぶっ掛けて体温が下がり始めたのを見て、兄弟子達が「救急車、救急車」とうろたえる程の状況であったにもかかわらず時津風親方は直ぐに救急車を呼ばせようとしなかったらしい。時津風親方は時太山が生き返って、自分達のリンチがバレ、親方の地位を失うことを恐れたのではないかリンチのいずれかの時点からか、時津風親方は時太山を生かしておく訳にはいかなくなったのではないかと思う。だからこれは練習中の急死ではなく、殺意を持った完全な殺人以外の何ものでもないと思う

 相撲というプロの世界でこのようなことが起こるとは非常に情けない。1985年以降の死亡例が16例あるというから、約1年に1人死んでいる計算か。死亡率が非常に高い。この辺にも日本相撲協会の根本的問題があるのではないか。相撲だけで生きてきた人間が日本相撲協会の役員をしているようだが、もう時代の変化についいけてないのではないか。血の入れ替えが必要であろう。

 文化伝統を無視して何でも合理精神だけで世の中を動かすのは間違っているが、科学が発達し、社会も変われば、それなりに古い慣習や練習方法を科学的に見直すことも必要であろう。相撲の世界では、文化・伝統と科学・世間の動きのバランスが取れていないと思う。現在の日本相撲協会にそれを改善する能力は残念ながら全く存在しない。

(2007年9月30日 記)

TOPページに戻る